『私たちはなぜ税金を納めるのか』に学ぶ税制史① 絶対王政~市民革命期イギリス

ということで、ようやくノートにまとめ終わったので、この本の中身を書いていこうと思う。

世界史、なかでも近代から現代にいたる税制をまとめた本で、終盤では未来に向けての話も載っている。

今回はその中の序盤、絶対王政~市民革命期のイギリス編となる。

◆絶対王政下、戦費の増大と議会発言権の増大

当時、三十年戦争を通じて軍艦建造技術の進歩をはじめとして戦争技術が著しく進展し、そのために戦争遂行の費用が飛躍的に増大した。
絶対王政下といえども、平時はともかく、戦時は臨時税に頼るしかなく、そのためには議会の同意が必要であった。

1625年、チャールズ1世即位。
議会では対スペイン戦の経費をを賄う特別税が14万ポンドしか承認されず、しかも通常、即位した王の生涯承認されるはずのトン税・ポンド税が1年間しか承認されなかった。

王はこれに怒って議会を解散し、承認なしにトン税・ポンド税を徴収する。さらに強制借り上げ金や船舶税の導入など、市民の経済的負担を増やしていった。

1628年、ふたたび議会を招集すると議会は権利請願を起草し、提出する。
「第1項 議会の同意なき課税の禁止」
チャールズはやむなく裁可するが、不満なので翌年にはまた議会を解散する。
以後11年間親政を敷く。その間、税や罰金を増額、新設していく。

1640年、スコットランドとの主教戦争の経費のため、また議会を招集する。
ここで議会は課税の廃止、禁止条項を増やすことを意見した。

◆議会派VS王党派→クロムウェル護国卿政権

国家財政が逼迫して臨時税に頼る度合いが高まるほど、議会の発言力が増していった。
その中で、議会はどんどん過激化し、議会派(過激派)と王党派(穏健派)に分裂する。

1642年10月、両軍が衝突するも、議会派は劣勢であった。
これは、議会軍は軍事調達のための財政基盤がないことに起因した。

そこで1643年、資金調達委員会を設立。
査定課税 Assessd Tax という、財産への直接課税を導入した。
これは一定の財源調達額を各地域に割り振り、財産の査定額に応じた課税を各戸に課すものであったその後、週割査定税、月割査定税として定着し、後のイギリス所得税の前駆となった。
この査定課税は公平課税ではなく、ロンドン市に負担が集中したことが問題であった。

そこで、間接税として内国消費税 Exercise Duty が導入された。
これは生活必需品への課税が強く、庶民も税負担を負うことになった。
当初は戦費調達のための臨時課税のはずだったが、現実には内乱終結後の共和国の窮乏を救うため、課税対象を拡大しつつ恒久化された。

こうして、すでに導入されていた関税に加え、査定課税、内国消費税といった新税の導入が長期的にイギリス財政の基盤を確立することになった。

その後、1645年2月、議会によってニューモデル条例が可決された。
これにより議会軍の再編強化が図られ、総司令官フェアファクス、副司令官クロムウェルの体制が敷かれる。

1646年6月、国王軍が降伏し第1次内乱が終結する。
47年には国王を捕虜とし、48年に第2次内乱終結。
49年1月、チャールズ1世を国家反逆罪で処刑する。
その後独立派と平等派の争いが表面化し、クロムウェル護国卿政権として軍事独裁政権が誕生する。

◆王政復古と宗教対立、名誉革命

60年、チャールズ2世により王政復古が図られる。
この際、課税は議会承認を必須とすること、消費税の一部とポンド税、トン税、関税は国王に供与することが決められた。

1685年、ジェームズ2世が即位し、カトリック寛容政策を敷き、国教会を奉じる議会と対立した。
王が反乱鎮圧を口実に2万を常備軍化。

1687年、88年に王が信仰自由宣言をする(国内は反カトリック)。

1688年11月、オレンジ公ウィリアム3世が軍を率いて上陸すると国王はフランス逃亡。
1689年2月、ウィリアム3世とメアリが権利宣言に署名し、共同王位につく。
これが名誉革命となる。

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◆家産国家から租税国家へ

シュンペーターの『租税国家の危機』に曰く、
家産国家 : 国家が保有する財産で国家財政を賄える
租税国家 : 国家の保有財産だけでは支出を賄えず、主として租税財源に依存する
という区分があり、
17~19世紀にかけて、多くの欧州国で家産国家から租税国家への移行が生じた。

これは、絶対王政下で軍事費の膨張と官僚機構の維持のために莫大な費用がかかり、
これは王室財産では賄えず、租税に頼ることになったためだ。

が、租税とは個人財産への介入なので、議会の承認が必要だった。

シュンペーター『租税国家の危機』は、神聖ローマ帝国のオーストリアを事例に、近世領邦国家の領国経営をつぶさに見ていく。

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この後、この『私たちはなぜ税金を納めるのか』は19世紀ドイツ、19~20世紀アメリカでの税制の移行や思想についてみていき、
第5章で現在の世界経済について、そして第6章で今後の税制について語る。

現代においても僕たちは税金を納めるわけだが、これは「お上に納める」との考えもあれば「公共サービスを金で買っている」という考えもある。

どちらが正しいとかいうよりは、税制の変遷につれて人びとの意識がどう変わっていったのかを知ることで、いまの自分の考えを形成するための助けになるのではないかと思う。

「彼女たちの売春」という本を読んだのだけど

望まないで売春をしている女性が多数いるというのなら、不謹慎ながらこれは凄いチャンスなんじゃないかなと思う。
というのは、彼女たちは潜在的に他の業界の労働市場への新規参入者だからだ。

家政婦や介護、育児みたいな産業に押し出すことができれば、利用者側にとって高い料金を低くすることができる。
と思ってたんだけど、なんかどっかのデータで、保育士とか介護士が夜は・・って例も多いよって話を読んだ気がするので、自信なくなってきちゃった

まあでも、望まないでやってるんなら、他の業界への移動が容易になるようなサービスを考えれば、かなり儲かりそうだよなあ

追記)
保育士・介護士の賃金が安いから、と書いてあったような覚えがあるんだよな。
他の産業に押し出すってのも手だけど、そもそも論を言えば、賃金上げないといけない話なんだよな

最低賃金や生活保護の話にも通じることだけれど、「健康的で文化的な最低限の生活水準」を維持するために必要な金額ってのがあるんだよな。
親と同居しているから意識していなかったけれど、その「必要な金額」について考える必要がある
で、従業員の貢献利益も考慮すると、給料が必要な金額に満たないときに仕方がないパターンもある、かもしれない。

これを解消するためにはベーシックインカムによって、企業が「必要な金額」を考慮しないでも賃金を設定できるのが望ましい
この辺り、ベーシックインカムについてじっくり調べてみたいと思うな

あと、新生児における貧困家庭の割合。よく貧乏人の子沢山とは言うし、貧困家庭での虐待が多いというイメージもあるし、また虐待件数自体も増えている、のだけれど、実際のところどうなのかな。
これが年々増えているっていうのなら、憂慮すべき問題と思う

日本の雇用慣行とその歴史 まとめ

一通りの話が出たので、今回でシンプルにまとめる。
今後、別の立場から書かれた本などを呼んだら、また改めて書いてみるのも良い。

その1では戦前から1970年前後において、いわゆる「日本型雇用システム」が定着した背景を
その2では1970年前後からの日本型雇用システムへの政府の後押し、および理論面から日本型雇用システムを支えた「知的熟練論」について
その3では1990年代から唱えられた「日本型雇用システム」からの脱却、その試みの1つとしての「成果主義」とその敗因を

それぞれ、『日本の雇用と中高年』から引用した。

今回はそのまとめってことで図にしてみた。
この方が見やすいよね。

僕の意見としては図の通り、裁量労働制もうまくいかないと思うんだよね。

まあ、残業代出さないためだけの制度としてはうまくいくんだろうけど、
労働生産性が上がるかというとそうでもないんじゃないかな。

業務分析してJob Descriptionの導入をきっちり考えないといけないし、
そのためにはコンサルとかがどかっと入るんじゃないかなあ。

そういえば、BABOK(ビジネスアナリシス知識体系ガイド)にも資格があるんだよね。
僕はコンサルの方に行きたいので、いずれこの資格を視野に入れるのかも。
あんま話題として見かけないけど、勉強の指針としては役に立つんじゃないかな

日本の雇用慣行とその歴史 ③(濱口佳一郎『日本の雇用と中高年』より)

今回で3度目。
結局、成果主義について抜き出そうと思う。
成果主義は本来、職務内容がしっかり決まっていないと適切な評価ができない。
が、我が国では過去にこれを決めないままに成果主義を導入し、惨憺たる結果を巻き起こした。

富士通の事例について書いているのが城繁幸『内側から見た富士通「成果主義」の崩壊』だ。
目標管理シートの取決めなど、制度上のミスが大きな弊害となって組織に影響を及ぼす様がわかる。

さて、『日本の雇用と中高年』に立ち戻って話を進めよう。

p.171~172「ここまで本書で繰り返し述べてきたように、日本型雇用システムとは、スキルの乏しい若者にとって有利である反面、長年働いてきた中高年にとって大変厳しい仕組みです。不況になるたびに中高年をターゲットにしたリストラが繰り返され、いったん離職した中高年の再就職はきわめて困難です。しかしながら、その中高年いじめをもたらしているのは、年齢に基づいて昇進昇格するために中高年ほど人件費がかさんでいってしまう年功序列型処遇制度であり、その中にとどまっている限り、中高年ほど得をしているように見えてしまうのです。
こうした年齢とともに排出傾向の高まる日本型雇用システムの矛盾は、一九六〇年代から繰り返し指摘され続けてきました。にもかかわらず、一九七〇年代後半以降はむしろ、日本型雇用システムを高く評価する議論が労働経済学の主流を占め、それがきちんと現実に向かい合うということを妨げてきたように見えます。小池和男氏は『日本の雇用システム その普遍性と強み』(東洋経済新報社、一九九四年)で、「しばしば日本の報酬制度は、たんに「年功」、つまり勤続や年齢などと相関が高く、それゆえ「非能力主義的」とされてきた」としつつ、勤続二〇年を超えてもなお知的熟練は伸び続けるのだと主張し、それを形成するように日本の報酬制度は組み立てられていると述べています。つまり、とても合理的な仕組みなのだ、と。
実際には、職能給制度を単に年功だけで賃金を決定する仕組みだと考えている人はいないでしょう。それが「能力査定」によって末端の労働者に至るまで微妙に差がつく仕組みであるという点で、欧米の一般労働者向けの賃金制度と異なるということはかなり知られているはずです。問題はむしろ、特定の職務と切り離された全人格的な評価による「職務遂行能力」なるものが、本当に企業にとってそれだけの高い給料を払い続けたくなるような価値を有しているのか、という点にあります。」

p.173「性格に家ば、白紙の状態で「入社」してOJTでいろいろな仕事を覚えている時期には、「職務遂行能力」は確かに年々上昇しているけれども、中年期に入ってからは必ずしもそうではない(にもかかわらず、年功的な「能力」評価のために、「職務遂行能力」がなお上がり続けていることになっている)というのが、企業側の本音なのではないでしょうか。」

p.175~177「一九八〇年代まで一世を風靡した知的熟練論に代わって、一九九〇年代には日本型雇用システムの見直しを唱導する議論が流行します。労働経済学者の中からも、島田晴雄『日本の雇用』(ちくま新書、一九九四年)や八代尚宏『雇用改革の時代』(中公新書、一九九九年)のような、ある面でジョブ型雇用システムへの移行を主張する議論が展開されていきました。島田氏の本は現在絶版状態ですが、例えば「これからの採用は仕事のニーズに応じて最も適切な人材をていねいに審査して採用するという「ふつうの採用」を基本にすべき」など、再読されるに足る内容が多く含まれています。とりわけ中高年問題を論じた次の一節は、バランスのとれた筆致で説得力に富んでいます。

一方、平成不況の中で中高年ホワイトカラーとりわけ管理職層が雇用調整の対象として着目されるようになり、日本の終身雇用慣行は崩壊するのかという意味で世間の関心を集めたことを前述したが、これは日本の雇用の長期的変化を考える上で重要な意味を含んでいる。
勤続年数の長い安定的な雇用保障と年配者になったときに良い思いができるという年功賃金の恩恵を信じて、長い期間にわたって働いてきた人々である。この人々を不況が厳しく労働の固定費的負担が厳しいから雇用削減の対象にしようという考え方は少なくとも次の三つの点で誤っている。……
私見では、こうした長期で収支をバランスさせるような暗黙の契約ともいうべき雇用慣行はこれからの時代には企業にとっても労働者にとっても無駄の負担を課することになるおそれが大きくなってきており、厳密な能力評価の下で、本人の能力と成果に応じた報酬を提供し、比較的短期で労使双方にとって収支バランスの合う雇用を増やしていくことが望ましいと考える。

◆成果主義の登場と迷走
より実務的なレベルでは、一九九〇年代に人事関係者の関心を集めたのは、高すぎるとみなされた中高年層の賃金水準を合理的な装いで引き下げるための手段としての「成果主義」でした。成果主義賃金制度も査定によって賃金を決定するという点では職能給と変わりません。ですから、「能力・成果主義」とごっちゃにした言い方をする人もいます。しかし、成果主義の成果主義たるゆえんは、それが日本的な意味合いにおける「能力主義」を否定しようとするところにありますた。
一九九〇年代にもてはやされた成果主義では、賃金決定における年齢や勤続年数といった要素は否定されています。職能資格制度における能力評価基準が主として潜在的能力であったのに対して、成果主義における能力評価は成果や業績という形で現れた顕在的能力を意味するのです。職能資格制が長期的な観点から能力の蓄積を重視し、したがって昇格の早い遅いはあっても基本的に降給降格はないのに対して、成果主義は短期的な観点から労働者の市場現在価値を重視し、それゆえ査定結果は累積させず、年度ごとの評価で昇級昇格することもあれば降給降格することもある(いわゆる「洗い替え」方式)ということになります。
従って、年功制の否定というのが成果主義の中心になるわけですが、そのベースになるべき評価基準は明確ではありません。欧米の成果給はその基本に職務(ジョブ)が明確に存在しており、その上で職務ごとに期待される成果がどの程度達成されたかを査定して個別賃金が決定されるのです。しかし、日本で導入された成果主義賃金は決して職務給ではなく、むしろ現在の職能資格を職務等級に括り直しただけというものが多かったようです。現実の日本の人事労務管理は職務ベースで行われているわけではないので、成果主義といっても職能給マイナス年功制でしかないのが実態でした。しかしそれでは、成果主義とは査定の裁量幅の拡大にすぎません。
労働法学や人事労務管理論も含め、現代日本では年功制と成果主義を対立させて論ずることが多く、賃金制度論としては職務基準かヒト基準かが最重要であるという基本的な認識が希薄であることが、この混乱の背景にあります。そのため、年功的に運用されてきた職能給を成果主義に改めると、成果を評価すべき基準自体が不明確になってしまったわけです。実際には、企業による成果主義の導入は、成果主義だからといってむりやり目標を設定し、その目標を達成していないという理由によってとりわけ中高年層の高賃金を切り下げる手段になってしまったようにも思われます。そのため、二〇〇〇年代半ばから成果主義に対する批判が噴出してきました。」

若いうちは安月給で働いて、その見返りをおじさんになってからもらうという暗黙の契約が、おじさんになったらクビ切ろうぜっていう話になる。
そのための道具として成果主義が導入されたわけだね。
なので、制度設計がまずくて現場から不満が噴出しても、そもそもクビ切りが目的だから改善にも本腰が入らない。

制度設計って、とても大事だと思うんだがなあ。

日本の雇用慣行とその歴史 ②(濱口佳一郎『日本の雇用と中高年』より)

さて、随分と間があいてしまったが、またこの本から引用して日本の雇用制度を見ていきたい。

前回は戦前から1970年前後までに、配置転換のために企業内部でジョブ型雇用制度の導入を断念する流れを見てきた。
今回は、1973年の第一次石油危機を境に、政府の政策としてもメンバーシップ型を支持するようになってきたこと、
雇用調整の手法、日本型雇用を理論的に支える内部市場論および知的熟練論が広まったことを紹介したい。

前回の記事と同じように、太字などの部分については僕が修正を加えた部分だ。

p.52「日本の雇用政策が外部労働市場志向型から内部労働市場志向型に転換したことの方性的表現は、一九七四年一二月に成立した雇用保険法である。同法は失業保険法の改正であり、当初は失業給付の切り下げだとして総評や雇うが反対し、いったん廃案になっていました。しかしこの法案の中に書かれた小さな規定、経済変動に対処するために雇用調整給付金を支給する根拠規定(第62条第1項第4号)が、世の中を動かしていきます。石油危機の影響で雇用失業情勢が厳しさを増し、一時休業や一部には大量解雇まで現れるようになると、もとから賛成だった同盟に加え、反対だった中立労連や総評加盟の民間組合からも助成金の早期実施の声が続出しました。こうして、危機に対する雇用維持を可能にする法案としての期待を背負って再度国会に提出され、年末に成立するが早いか、翌一九七五年一月から直ちに雇用調整給付金の大量支給が始まったのです。」

p.53「同給付金は、労働大臣が指定する業種に属する事業を行う事業主で、経済的理由により事業活動の縮小を余儀なくされたものが指定期間内に休業を行い、休業手当を支払った場合に、手当総額の二分の一(中小企業は三分の二)を支給します。」

p.53~54「雇用保険法自体は政策当局としては意図せざる政策転換という面が強かったのですが、その後に策定された経済計画は、政策思想の転換を明確に謳いあげるようになりました。すなわち、一九七六年五月に閣議決定された「昭和五〇年代前期経済計画」は、「経済変動に際して失業の防止を重点に雇用の安定を図る」と、雇用安定政策を正面切って打ち出しています。
 これを受けて、一九七七年五月の雇用保険法改正では、雇用保険法の目的に初めて「失業の予防」という言葉を明記するとともに、雇用改善事業から雇用調整給付金を取っ出してきて雇用安定事業として独立させました。給付対象となる企業行動も、休業だけではなく教育訓練や出向にまで広げられました。そして雇用安定事業に必要な財源として労働保険特別会計の雇用勘定に雇用安定資金を設置したのです。
 しかしここでは、雇用安定事業の目的がそれまでの景気変動への対応から産業構造の変化への対応にまで拡大された点に注目しておきたいと思います。新たな雇用安定事業は景気変動等雇用調整事業と事業転換等雇用調整事業の二つからなります。景気の変動すなわち短期的な景気循環に伴う雇用調整に対する対策だけではなく、中長期的な産業構造転換をも対象に含めたのです。前者は欧州諸国でもその例が見られますが、後者は産業構造転換に対応する教育訓練という本来的に政府の雇用政策自体の役割と考えられてきたことを、企業内部の雇用維持措置の一環として行わせようとするものとして、日本独自の政策方向に大きく足を踏み出したものと言えるでしょう。」

第一次石油危機を転機に、コストカットや中長期での産業構造の変化といった理由でリストラをしないといけなくなった。
民間では配置転換といったことで対応するようになっていたのだが、これを政府が後押しするように、「雇い続けること」に給付金がもらえるようになったのだ。

ちなみに、リストラの対象としては当時から中高年が狙い撃ちにされていた。ここについても引用しておきたい。

p.56「とはいえ、石油危機以後一九七〇年代を通じて、企業現場で着々と実施され、マスコミ等でも注目を集め続けたのは、中高年を狙い撃ちにした人減らしでした。朝日新聞経済部『雇用危機』(一九七八年一〇月刊)、毎日新聞社『雇用SOS』(一九七九年二月刊)などにまとめられた当時の新聞連載記事には、「受難の中高年」といった文字が乱舞しています。前者から引用すると、

……企業の人減らしは、いまや完全に中高年層に照準が合わされている。……希望退職とは名ばかりで、勇退年齢をはっきり公示し、肩をたたき、あすにも会社がつぶれそうな危機意識を植えつけて、対象者をやめないではいられないような気持ちに追い込んでいる例が目立つ。
……なぜ、企業は経験の深い、働き盛りの中高年をやめさせようとするのか。……社長は「高齢者は体力的に落ちてくる半面、給料は年功序列だから高くなるので、高齢者からやめてもらうことにした」と説明している。また、……総務部長は「会社再建のために、同じやめてもらうなら、年配の方からというのが、今や世間的なルールになっている」と明快だ。
……年齢給や家族手当がふえるから、中高年の賃金が高くなるのは当然のことだが、その差は年々小さくなっている。しかし、企業の立場から見れば、まず賃金の高い中高年を減らして、人件費負担を軽くしたい、というのが共通した狙いとなっている。」

この調子だ。雇用調整については、以下のようになっている。

p.58~59「経済危機の中で「首を切らないようにする」ために、何をどのような手順で実施すればよいのか。雇用保険法施行と時を同じくして一九七五年一月に刊行された日経連『経営労務の指針一九七五年版』は、「合理化の具体的な方法とその留意点」として、次のような順序を示しています。
 まず時間外規制などから始まり、次に結びつきの弱い人から順に整理していきます。
①パートタイマー、臨時工、季節工などの整理、②入口(採用)規制としての新規学卒者の採用中止、③欠員不補充(自然減耗による人員削減)、④定年後の再雇用中止など。この後在籍従業員の雇用調整に入りますが、そこでも順番は配置転換、出向、一時帰休、希望退職者募集、指名解雇です。
 配置転換や出向は、それまで主として従業員の能力開発にウェイトを置いて実施されてきましたが、不況対策における業務の繁閑調整機能、あるいは工場移転等の事情で行われる場合の留意点が細かく書かれています。この時期は、後述の日本型雇用法理がけいっ精される時期であり、そこにはこうした雇用維持目的で頻用された配置転換や出向の現実が映し出されています。」

さて、ここからは内部労働市場論についての話になる。

p.81「こういった評価の逆転を学問的に説明しようとして当時持ち出されたのが、アメリカ由来の内部労働市場論でした。一九七一年にドリンジャーとピオリという労働経済学者が著した『内部労働市場とマンパワー分析』(邦訳は二〇〇七年に早稲田大学出版部)を、一九七四年に隅谷三喜男氏が紹介し、瞬く間に広がっていきました。それは、アメリカでも年功制的労使関係が見られ、それは日本的特殊性ではなく、資本主義発展の独占段階において一般的に形成されるものだという考え方です。」

p.82「しかし知識社会学的にいえば、当時の日本は日本型雇用システムの正統性を論証する理論を必要としていたのであり、日本的内部労働市場論はその需要に応じるものであったのでしょう。実際、その後はむしろ小池和男氏の知的熟練論(たとえば『日本の熟練』有斐閣、一九八一年)が、内部労働市場論の代表として広く受容されていくことになります。やや皮肉な言い方をすれば、小池理論とは総評が地力では展開できなかった職務給に対する理論的反駁を、経済理論を駆使してスマートにやってのけた(ように見えた)もののように思われます。そして、ここで失われたのは、それまで曲がりなりにも口先では維持されてきた同一労働同一賃金原則でした。そんな「古くさい」代物は誰からも顧みられなくなってしまったのです。
 知的熟練論のロジックを展開した小池和男氏の『日本の雇用システム その普遍性と強み』(東洋経済新報社、一九九四年)から、職務給を評価できない理由を述べた部分を見てみましょう。

 知的熟練の向上度を示す中核的な指標は、(a)経験のはばと(b)問題処理のノウハウである。このふたつは、ふつうの報酬の方式では促進できない。多くの国の生産職場で最もふつうの報酬方式は、仕事給pay-for jobであろう。職務ごとに基本給をきめる。むつかしい仕事につけば賃金はたかく、やさしい仕事では賃金はひくく、しごく当然とおもわれよう。……だが、いずれも知的熟練の形成には役立たない。なぜか。
 知的熟練の第一の特徴、経験のはばの広狭が、仕事給では把握できない。仕事給とは、その時ついている仕事によって基本給がきまる。いまA、Bふたりの労働者が、まったく同じ仕事についているとしよう。しかし、経験のはばは大きくちがい、Aはその職場の他の一四の仕事全部を経験し、いつでも欠勤者の代わりもでき、新入りに教えることも、問題処理も上手だとしよう。他方、Bはいまついている仕事しか経験がなく、当然欠勤者の代わりなど一切できない、としよう。それでも仕事給ならA、B両人はまったくおなじ基本給となる。それでは、Aの貢献にたいし、なんら報酬がはらわれない。変化や異常に対処する知的熟練という面倒な技能を、身につけようとするインセンティブがなくなる。」

p.84「議論としてはまことに筋が通っているように見えますし、実際白紙の状態で「入社」してジョブローテーションでいろんな仕事を一つ一つ覚えていく途上にある若年期においては、このロジックが当てはまる可能性も結構高かったのであろうと思われます。問題は、生計費がかさんできて年功賃金のありがたさが身にしみるようになる中高年期に至っても、このロジックがそのまま適用できるのか、という点でしょう。本音でそう思っているのか、それとも建前論にすぎないのか。それは、現実の企業行動によってしか知ることは出来ません。好況期にはそのロジックを信じている振りをしている企業であっても、いざ不況期になれば、「変化や以上に対処する知的熟練という面倒な技能を身につけ」たはずの中高年労働者が真っ先にリストラの矛先になるという事実が、その本音を雄弁に物語っているように思われます。」

この「日本型雇用」というのは、ポストモダンになるまでは上手くいっていたんだろうなあ。
石油危機もコストカットで乗り切り、政策的な低失業率により社会的な安定も得、高経済成長を進めていた日本。
ジャパン・アズ・ナンバーワンとも称され、先進各国との貿易摩擦が激化していく。
いわゆる「勝ち過ぎ」って状況だったんだな。

さて。ここからの方向性に悩むな。
若年・中高年の雇用を比較して世代間対立についてまとめるのも良いのだけれど、
成果主義の導入とその失敗について引用するのもありだな。

まあ、おいおい考えるとしようかな。
一通り終わったら、図を書いたり僕の意見を入れてまとめることにしたい。

日本の雇用慣行とその歴史 ① (濱口桂一郎『日本の雇用と中高年』より)

なかなか身の回りが片付かないのだけれど、この本について紹介しようと思う。
日本の雇用制度について歴史的な経緯から説明していて、とても勉強になった本だ。

「第一章 中高年問題の文脈」の「三 年齢に基づく雇用システム」には以下のようなことが書かれていた。(太字部分は僕が太字にしたところ)

p.41「明治期の日本では、製造業の職工たちは頻繁に工場を移動し、「渡り工」と呼ばれていました。
新卒採用もなければ定年退職もなく、年功賃金も年功序列もなかったのです。
これが変わりはじめるのが日露戦争期です。特に第一次大戦後の労働争議の頻発を契機に、大企業の労務管理制度が大きく転換します。
大企業は争議を主導した渡り職工たちを追放し、自己負担で養成した若い子飼いの職工たちを中心とする雇用システムを確立しました。
この時期に作られたのが定期採用制と定期昇給制、定年退職制です。」

p.42「学校を卒業したばかりのまっさらな若者に、企業負担で教育訓練を施し、企業内で職長などにまで昇進させていくという仕組みです。
他企業に雇われていたよそ者は、期間を定めた臨時工という形で雇われ、本工たちのバッファーとされました。
また本工を企業内に温存するために、本工全員が一斉に一定時期に、毎年必ず査定を受けて昇給していき、勤続とともにその昇給が累積していくという定期昇給制がとられました。」

p.42「そして、労務コストの高くなった彼らを一斉に排出する手段として定年退職制が導入されたのです。
このシステムにおける雇用とは、企業へのメンバーシップを意味するものでした。
しかし、こういった年齢に基づくメンバーシップ型システムが適用されたのは大企業の本工たちだけで、社会的にはごく一部にすぎませんでした。
大企業を排除された渡り職工たちは、中小企業の世界で頻繁な労働移動を繰り返していました。
労働社会の大部分は、年齢に関わりないジョブ型システムの下にあったのです。」

p.43「こうした戦前期大企業の労務管理制度が社会全体に広がっていく契機は、戦時体制下の労働法制にありました。
学校卒業者使用制限令(一九三八年)、青少年雇入制限令(一九四〇年)により新卒者の採用統制下に置かれる一方で、従業員雇入制限令(一九三九年)、従業者移動防止令(一九四〇年)、労務調整令(一九四一年)により、採用から解雇まで雇用管理を厳しく統制したのです。
また、工場事業場技能者養成令(一九三九年)は五〇人以上事業場に三年間の技能者養成を義務付け、大企業の養成工制度を中小企業に強制することになりました。」

p.44「こうした戦時立法は戦後全て廃止されました。終戦直後の雇用システムを主導したのは急進的な労働運動です。
しかし、その目指す方向性は、年齢に基づくメンバーシップ型をさらに強化しようとするものだったのです。
過剰人員を整理したい企業側と雇用を守りたい組合側の間で、定年を理由に排除できるとともに定年まで雇用を保証するという意味合いで定年制を導入する例も見られました。」

以上のような経緯で、戦前期にジョブ型雇用が一般であった日本で、メンバーシップ型の雇用が広がっていく。
戦後になると経営者側はジョブ型雇用に移行しようとするが、『配置転換』をめぐる問題からメンバーシップ型雇用の維持に転換する。

p.45「経営権の確立を掲げて一九四八年に結成された日経連(日本経営者団体連盟)は、一九五〇年の『新労務管理に関する見解』において、「徒に仕事内容と無関係な身分制の固定化と給与の悪平等」を排し、「仕事の量及び質を正確に反映した」職階給制度の導入を唱導しました。
職階制の効果として「同一労働同一賃金の徹底」というのも挙げられています。」

p.46「一方政府は一九四〇年代末から職務給の導入に向けた指導を行っていましたが、とりわけ一九六〇年代には政府全体の方針となりました。
前章で見たように、国民所得倍増計画をはじめとする累次の政府の政策文書は、口をそろえて職務給への移行を唱導しています。
一九六七年に政府が国際労働機関(ILO)の「同一価値の労働についての男女労働者に対する同一報酬に関する条約」(第一〇〇号)を批准したのも、こういう時代精神を抜きにしては理解しにくいでしょう。」

p.47~48「ところが一九六〇年代後半には、事態はまったく逆の方向に進んでいきます。
一言でいえば、仕事に着目する職務給からヒトに着目する職能給への思想転換です。
これをリードしたのは、経営の現場サイドでした。その背景にあったのは、急速な技術革新に対応するための大規模な配置転換です。
労働側は失業を回避するために配置転換を受け入れるとともに、それに伴って労働条件が維持されることを要求し、経営側はこれを受け入れていきました。
日経連が理念としての職務給化を主張していたまさにその時に、企業人事の現場は職務給では配置転換が円滑に実施できないということを認識し始めていたのです。
そして、この現場の声が日経連のスタンスを変えていくことになります。

この転換を明確に宣言したのが、一九六九年の報告書『能力主義管理――その理論と実践』です。
ここでは、「われわれの先達の確立した年功制を高く評価する」と明言し、年功・学歴に基づく画一的人事管理という年功制の欠点は改めるが、企業集団に対する忠誠心、帰属心を培養するという長所は生かさなければならないとし、全従業員を職務遂行能力によって序列化した資格制度を設けて、これにより昇進管理や賃金管理を行っていくべきだと述べています。
「能力」を体力、適性、知識、経験、性格、意欲からなるものとして、きわめて属人的に捉えている点において、明確にそれまでの職務中心主義を捨てたと見てよいでしょう。

これ以後の日本の典型的な賃金制度は、個々の労働者の職務遂行能力を評価した資格(職能資格)に基づいて賃金を決定する職能給となります。
職務遂行能力はあくまでも潜在能力の評価であって、実際に従事している職務とは切り離されているので、企業が労働者をどんな職務につける場合でも障害にはなりません。
逆にいえば、賃金制度が職能給という形に落ち着いたことで、職務の限定なき雇用契約という在り方が確立したともいえます。

職能給の根拠となる職務遂行能力は、具体的な職務から切り離された一般的な潜在能力ですから、その評価も具体的な職務に関する客観的な技能水準よりは主観的な要素が中心となりがちです。
これが賃金差別問題の原因ともなります。

一方で、一般的な潜在能力は通常年齢や勤続とともに高まると考えられますから、実際の賃金カーブは年功的な上昇を示すことは不思議ではありません。
とりわけ制度設計上、各職能資格ごとに標準滞留年数や最長滞留年数を設定し、労働者によって幅を持たせながら一定年数経過したら必ず昇級、昇格させていくという年功的な運用が広く見られました。
この意味では、職能給も年功賃金の一種ということになります。」

と1970年前後までにはいわゆる「日本的」な雇用慣行がすっかり決まっていたらしい。
この後、裁判での判例や立法によってこのメンバーシップ型雇用制度の強化が行われる。
それについては、また後日記事にしようと思う。

※職務給というのは仕事の内容で給料が決まる形、職能給というのは個人の職務遂行能力で給料が決まる形、ということのようだ。
 職務給が「ジョブ型」の雇用に該当する

旧日本軍について

本を読んだので、ちょっと紹介してみる。

「未完のファシズム」は、第一次大戦や日露戦争の時期から日本の軍隊や思想について語り、なぜ日本がその後の戦争に引き込まれざるを得なかったのかを説明してくれる。
「日本軍と日本兵」は、第二次大戦時のアメリカの資料をもとに、日本軍や日本兵についてどのような見られ方をしていたのかがわかる。

僕自身、どう戦っても負けることがわかっていたのに、なぜ日本はアメリカとの戦争に突っ込んでいたのか不思議でならなかった。
(1940年、総力戦研究所というのが設立されていた。各官庁、陸海軍、民間から若手エリートを集めての机上演習の結果、日本必敗という結論を出したらしい)
「未完のファシズム」を読んでみて感じたのは、「戦争に向けて流れができるのは仕方がなかった」というのと、「そもそも日本の権力構造が間違って設計されていたから、その流れを誰も止められなかった」ということだ。
「日本軍と日本兵」を読んで知ったのは、「日本軍は非合理なことばかりしていると思っていたが、仕方のない面もあった」ということだった。

順を追って説明する。

■「未完のファシズム」を読んで思った1つ目。
「戦争に向けて流れができるのは仕方がなかった」

これは、「日本は植民地が少なかったから、ブロック経済ができなかった。そこで資源を得るためにアジアへ向かった」、ということなのだと僕は思っている。
よく日本は「持たざる国」で、イギリスやアメリカは「持てる国」だったと聞くが、そういうことだろう。

さて、日本の陸軍の中には、日本が持たざる国であることに対して2つの派閥があった。
皇道派と統制派である。
皇道派は、言ってみれば「日本は持たざる国なのだから、それらしくある程度弱そうな敵と戦おう」という立場で、
統制派は、「持たざる国である日本を持てる国にするために、満州を得よう、ソ連のように経済を統制して国を発展させていこう」という立場だ。
皇道派では小畑敏四郎、統制派では石原莞爾や永田鉄山、東條英機が紹介されていた。(石原は厳密には違うらしいけど、系統的には統制派と目されていた)

この派閥の考え方は戦い方の違いからくる。
まず、第一次世界大戦によって、「戦争というのは弾薬を大量に使う、総動員体制にならざるを得ない」ということが欧州で知れ渡った。
日本でも軍人や一部知識人はそのことをしっかり学んでいた。
そのため、持たざる国である日本が資源を浪費する戦争をしなければならない、というジレンマに悩み苦しんでいた。
これに適応するための方策が上記の2つの立場であったということだ。

ちなみに、1925年に行われた「宇垣軍縮」では、弾薬を必要とする、機械化された戦争への適応のため、歩兵部隊が主に削減され、浮いた金で戦車や飛行機部隊が新設されていた。

さて、皇道派で小畑敏四郎を挙げたが、本では特に彼の殲滅戦思想について取り上げられていた。
「精神力や鍛練をしっかり積んで、包囲・殲滅すれば寡兵でも敵を倒せる」という話なんだけど、敵を包囲してもそんなに簡単に敵を倒せるとは限らない。
敵が強かったら倒せないかもしれない。この「敵」というのは、暗黙のうちにそれぐらい弱い敵という前提条件が加わっていた、というわけだ。
でも、敵が誰かを決めるのはあくまで外交的な結果であり、政治の仕事なので、軍が口を挟んでいい問題ではない。
だから、あくまで「敵には常に側面から包囲殲滅せよ」ということを表向き述べていた。

そして、皇道派の小畑や荒木といった面々は、政治と軍が密接にかかわって、強い敵とは戦わないで済むようにしていくべきだと考えていた。意外と現実的だったのだ。
だが、満州という利権についてはソ連とぶつかる危険性がある。仮想敵国ソ連に対しても、防衛線を越えてきた軍とだけ戦うようにしたい。

対する統制派は、まあわかりやすい。
石原が満州事変を起こしたのも、手っ取り早く日本を持てる国にするためであった。
まあ、石原が狂信的に日本対アメリカの最終戦争を見ているのに対して、永田はわざわざアメリカを敵に回す理由がよくわからなかったらしいのだけど。(アメリカは当時の日本の主力産業である紡績業の最大の輸出先だった)
石原がいうには、日本に不足している重要な資源は、「石炭・鉄鋼・石油・鉛・亜鉛・ニッケル・アルミニウム・マグネシウム・綿花・羊毛・ゴム・バルブ・塩」である。そのうちのかなりのものは満州で生産供給が可能であった。
だから、満州五カ年計画によって満州を開発していこうとしていた。

まあこういった形で陸軍内の2つの派閥が争って、結局統制派が勝って、満州で好き勝手やってるうちにアメリカから最後通牒を突きつけられた。
日本の社会としても、政治や経済で解決できないとみていたんだろうな。
(金融政策で結構なんとかなったんじゃねーの?って私見としては思うけど。高橋是清とかいたじゃん。金解禁のあたりの金融政策はいっぺんさらっておきたい)

■ほんで、「未完のファシズム」を読んで思ったことの2つ目。
「そもそも日本の権力構造が間違って設計されていたから、その流れを誰も止められなかった」

日本史の教科書でも、「元老政治」とか、「統帥権干犯問題」について書いてあるよね。

統帥権干犯問題が一番説明しやすいから、それを例にとる。

「統帥権」というのは、軍の指揮権だ。これは、大日本帝国憲法では天皇が握るものとされていた。
今の日本と違って内閣総理大臣が軍の指揮をとれない。文民統制がきいていない状況だ。
でも、実際に天皇に指揮をとらせて責任を負わせることなんてできるはずがない。
運用上では、明治維新を担った元老たちがこれをするはずであった。

でも、元老たちが死んだあと、統帥権は宙に浮いてしまい、誰も手綱を握れなくなってしまった。

こういったことがいくつもあった。
例えば内閣総理大臣の指名。現代日本では国会で決まるが、当時は政党政治が当たり前ではなかった。
あれは天皇によって指名されていたのだけど、それも元老たちの助言によって補われていた。

こういった形で、制度になっていない権力が元老に集まっていたのに、元老が死んで宙に浮いてしまった。
天皇にも責任を負わせられない。だから、誰も責任を取れない。
誰も、戦争に向かう流れを止められなかった。

■そして、最後。
「日本軍と日本兵」について。
「日本軍は非合理なことばかりしていると思っていたが、仕方のない面もあった」

例えば、対戦車歩兵。
戦車に対しては空から爆撃したり、対戦車砲でどかーんとやったりする。
でも、日本はそういう兵器があまり作れなかった(資源不足?)ので、歩兵が爆弾とかで戦車を撃退しようとしていた。
成功率はあまり高くなかったらしいけど、兵器がないから人を使うしかない、と。
たしか、ベトナム戦争でもゲリラがやってたんだっけ?

あるいは、バンザイ突撃。
日本兵はバンザーイと叫びながら突撃をすることがあった、らしい。映画とかでもやってるが。
これは、陣地を失って取れる手もなくなってしまった末の、半ばヤケクソ的なものだったらしい。
案の定、というか、あまり敵に損害も与えられない。

特筆すべきなのは、日本軍が一度陣地を築くと、なかなか手ごわかったらしい、ということ。
弾をムダにしないようにしっかりと敵を引き付けてから撃つので、アメリカはかなりてこづったらしい。
なかなか、旧軍に対する考え方を変えてくれた本だった。

日本の統治構造に起因する問題については、以下の本も詳しそうなので、いずれ読んでみたい。

職掌をしっかり決めない日本企業の雇用制度(メンバーシップ型雇用)に関する話が最近盛んだけれど、
それって、こういうところにも表れていたんじゃないかという気がしてならない。

組織のデザインってしっかりやらないといけないよなあって思う。

HBR’s Must Reads

というのを2年前に買って以来、ちまちまと読み進めている。
HBR's Must Reads Digital Boxed Set
ビジョナリー・カンパニーとかドラッカーのマネジメントを読む気はあんまないので、こういうのをちまちま読むのだ。
ハーバード・ビジネス・レビューの中から、領域ごとに必読の10記事を選んでまとめたものだ。
クレイトン・クリステンセンの破壊的イノベーション、ドラッカーの自己管理、ポーターの戦略論とかが載ってる。

世界の経営学者はいま何を考えているのか」みたいなの読んだあとに読むといい感じだと思う。
他に一緒によむと面白そうなのは、「統計学が最強の学問である」「サラリーマンの悩みのほとんどにはすでに学問的な「答え」が出ている」「経営戦略全史」かな

この辺のは、社会科学の分野で学問的な結論の出てるものをかみ砕いてくれているので、ざっくり概論的に経営学を知りたいときには良いと思う。

まあ、経営学は経済学、認知心理学、社会学の3つのディシプリンから成っているようなので、それぞれ専門を極めたいのであれば、そっちからじっくり攻めるべきのようです。

経済学の方からいきたいのであれば、「ひたすら読むエコノミクス」がオススメです。