日本の雇用慣行とその歴史 ③(濱口佳一郎『日本の雇用と中高年』より)

今回で3度目。
結局、成果主義について抜き出そうと思う。
成果主義は本来、職務内容がしっかり決まっていないと適切な評価ができない。
が、我が国では過去にこれを決めないままに成果主義を導入し、惨憺たる結果を巻き起こした。

富士通の事例について書いているのが城繁幸『内側から見た富士通「成果主義」の崩壊』だ。
目標管理シートの取決めなど、制度上のミスが大きな弊害となって組織に影響を及ぼす様がわかる。

さて、『日本の雇用と中高年』に立ち戻って話を進めよう。

p.171~172「ここまで本書で繰り返し述べてきたように、日本型雇用システムとは、スキルの乏しい若者にとって有利である反面、長年働いてきた中高年にとって大変厳しい仕組みです。不況になるたびに中高年をターゲットにしたリストラが繰り返され、いったん離職した中高年の再就職はきわめて困難です。しかしながら、その中高年いじめをもたらしているのは、年齢に基づいて昇進昇格するために中高年ほど人件費がかさんでいってしまう年功序列型処遇制度であり、その中にとどまっている限り、中高年ほど得をしているように見えてしまうのです。
こうした年齢とともに排出傾向の高まる日本型雇用システムの矛盾は、一九六〇年代から繰り返し指摘され続けてきました。にもかかわらず、一九七〇年代後半以降はむしろ、日本型雇用システムを高く評価する議論が労働経済学の主流を占め、それがきちんと現実に向かい合うということを妨げてきたように見えます。小池和男氏は『日本の雇用システム その普遍性と強み』(東洋経済新報社、一九九四年)で、「しばしば日本の報酬制度は、たんに「年功」、つまり勤続や年齢などと相関が高く、それゆえ「非能力主義的」とされてきた」としつつ、勤続二〇年を超えてもなお知的熟練は伸び続けるのだと主張し、それを形成するように日本の報酬制度は組み立てられていると述べています。つまり、とても合理的な仕組みなのだ、と。
実際には、職能給制度を単に年功だけで賃金を決定する仕組みだと考えている人はいないでしょう。それが「能力査定」によって末端の労働者に至るまで微妙に差がつく仕組みであるという点で、欧米の一般労働者向けの賃金制度と異なるということはかなり知られているはずです。問題はむしろ、特定の職務と切り離された全人格的な評価による「職務遂行能力」なるものが、本当に企業にとってそれだけの高い給料を払い続けたくなるような価値を有しているのか、という点にあります。」

p.173「性格に家ば、白紙の状態で「入社」してOJTでいろいろな仕事を覚えている時期には、「職務遂行能力」は確かに年々上昇しているけれども、中年期に入ってからは必ずしもそうではない(にもかかわらず、年功的な「能力」評価のために、「職務遂行能力」がなお上がり続けていることになっている)というのが、企業側の本音なのではないでしょうか。」

p.175~177「一九八〇年代まで一世を風靡した知的熟練論に代わって、一九九〇年代には日本型雇用システムの見直しを唱導する議論が流行します。労働経済学者の中からも、島田晴雄『日本の雇用』(ちくま新書、一九九四年)や八代尚宏『雇用改革の時代』(中公新書、一九九九年)のような、ある面でジョブ型雇用システムへの移行を主張する議論が展開されていきました。島田氏の本は現在絶版状態ですが、例えば「これからの採用は仕事のニーズに応じて最も適切な人材をていねいに審査して採用するという「ふつうの採用」を基本にすべき」など、再読されるに足る内容が多く含まれています。とりわけ中高年問題を論じた次の一節は、バランスのとれた筆致で説得力に富んでいます。

一方、平成不況の中で中高年ホワイトカラーとりわけ管理職層が雇用調整の対象として着目されるようになり、日本の終身雇用慣行は崩壊するのかという意味で世間の関心を集めたことを前述したが、これは日本の雇用の長期的変化を考える上で重要な意味を含んでいる。
勤続年数の長い安定的な雇用保障と年配者になったときに良い思いができるという年功賃金の恩恵を信じて、長い期間にわたって働いてきた人々である。この人々を不況が厳しく労働の固定費的負担が厳しいから雇用削減の対象にしようという考え方は少なくとも次の三つの点で誤っている。……
私見では、こうした長期で収支をバランスさせるような暗黙の契約ともいうべき雇用慣行はこれからの時代には企業にとっても労働者にとっても無駄の負担を課することになるおそれが大きくなってきており、厳密な能力評価の下で、本人の能力と成果に応じた報酬を提供し、比較的短期で労使双方にとって収支バランスの合う雇用を増やしていくことが望ましいと考える。

◆成果主義の登場と迷走
より実務的なレベルでは、一九九〇年代に人事関係者の関心を集めたのは、高すぎるとみなされた中高年層の賃金水準を合理的な装いで引き下げるための手段としての「成果主義」でした。成果主義賃金制度も査定によって賃金を決定するという点では職能給と変わりません。ですから、「能力・成果主義」とごっちゃにした言い方をする人もいます。しかし、成果主義の成果主義たるゆえんは、それが日本的な意味合いにおける「能力主義」を否定しようとするところにありますた。
一九九〇年代にもてはやされた成果主義では、賃金決定における年齢や勤続年数といった要素は否定されています。職能資格制度における能力評価基準が主として潜在的能力であったのに対して、成果主義における能力評価は成果や業績という形で現れた顕在的能力を意味するのです。職能資格制が長期的な観点から能力の蓄積を重視し、したがって昇格の早い遅いはあっても基本的に降給降格はないのに対して、成果主義は短期的な観点から労働者の市場現在価値を重視し、それゆえ査定結果は累積させず、年度ごとの評価で昇級昇格することもあれば降給降格することもある(いわゆる「洗い替え」方式)ということになります。
従って、年功制の否定というのが成果主義の中心になるわけですが、そのベースになるべき評価基準は明確ではありません。欧米の成果給はその基本に職務(ジョブ)が明確に存在しており、その上で職務ごとに期待される成果がどの程度達成されたかを査定して個別賃金が決定されるのです。しかし、日本で導入された成果主義賃金は決して職務給ではなく、むしろ現在の職能資格を職務等級に括り直しただけというものが多かったようです。現実の日本の人事労務管理は職務ベースで行われているわけではないので、成果主義といっても職能給マイナス年功制でしかないのが実態でした。しかしそれでは、成果主義とは査定の裁量幅の拡大にすぎません。
労働法学や人事労務管理論も含め、現代日本では年功制と成果主義を対立させて論ずることが多く、賃金制度論としては職務基準かヒト基準かが最重要であるという基本的な認識が希薄であることが、この混乱の背景にあります。そのため、年功的に運用されてきた職能給を成果主義に改めると、成果を評価すべき基準自体が不明確になってしまったわけです。実際には、企業による成果主義の導入は、成果主義だからといってむりやり目標を設定し、その目標を達成していないという理由によってとりわけ中高年層の高賃金を切り下げる手段になってしまったようにも思われます。そのため、二〇〇〇年代半ばから成果主義に対する批判が噴出してきました。」

若いうちは安月給で働いて、その見返りをおじさんになってからもらうという暗黙の契約が、おじさんになったらクビ切ろうぜっていう話になる。
そのための道具として成果主義が導入されたわけだね。
なので、制度設計がまずくて現場から不満が噴出しても、そもそもクビ切りが目的だから改善にも本腰が入らない。

制度設計って、とても大事だと思うんだがなあ。

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