なかなか身の回りが片付かないのだけれど、この本について紹介しようと思う。
日本の雇用制度について歴史的な経緯から説明していて、とても勉強になった本だ。
「第一章 中高年問題の文脈」の「三 年齢に基づく雇用システム」には以下のようなことが書かれていた。(太字部分は僕が太字にしたところ)
p.41「明治期の日本では、製造業の職工たちは頻繁に工場を移動し、「渡り工」と呼ばれていました。
新卒採用もなければ定年退職もなく、年功賃金も年功序列もなかったのです。
これが変わりはじめるのが日露戦争期です。特に第一次大戦後の労働争議の頻発を契機に、大企業の労務管理制度が大きく転換します。
大企業は争議を主導した渡り職工たちを追放し、自己負担で養成した若い子飼いの職工たちを中心とする雇用システムを確立しました。
この時期に作られたのが定期採用制と定期昇給制、定年退職制です。」
p.42「学校を卒業したばかりのまっさらな若者に、企業負担で教育訓練を施し、企業内で職長などにまで昇進させていくという仕組みです。
他企業に雇われていたよそ者は、期間を定めた臨時工という形で雇われ、本工たちのバッファーとされました。
また本工を企業内に温存するために、本工全員が一斉に一定時期に、毎年必ず査定を受けて昇給していき、勤続とともにその昇給が累積していくという定期昇給制がとられました。」
p.42「そして、労務コストの高くなった彼らを一斉に排出する手段として定年退職制が導入されたのです。
このシステムにおける雇用とは、企業へのメンバーシップを意味するものでした。
しかし、こういった年齢に基づくメンバーシップ型システムが適用されたのは大企業の本工たちだけで、社会的にはごく一部にすぎませんでした。
大企業を排除された渡り職工たちは、中小企業の世界で頻繁な労働移動を繰り返していました。
労働社会の大部分は、年齢に関わりないジョブ型システムの下にあったのです。」
p.43「こうした戦前期大企業の労務管理制度が社会全体に広がっていく契機は、戦時体制下の労働法制にありました。
学校卒業者使用制限令(一九三八年)、青少年雇入制限令(一九四〇年)により新卒者の採用統制下に置かれる一方で、従業員雇入制限令(一九三九年)、従業者移動防止令(一九四〇年)、労務調整令(一九四一年)により、採用から解雇まで雇用管理を厳しく統制したのです。
また、工場事業場技能者養成令(一九三九年)は五〇人以上事業場に三年間の技能者養成を義務付け、大企業の養成工制度を中小企業に強制することになりました。」
p.44「こうした戦時立法は戦後全て廃止されました。終戦直後の雇用システムを主導したのは急進的な労働運動です。
しかし、その目指す方向性は、年齢に基づくメンバーシップ型をさらに強化しようとするものだったのです。
過剰人員を整理したい企業側と雇用を守りたい組合側の間で、定年を理由に排除できるとともに定年まで雇用を保証するという意味合いで定年制を導入する例も見られました。」
以上のような経緯で、戦前期にジョブ型雇用が一般であった日本で、メンバーシップ型の雇用が広がっていく。
戦後になると経営者側はジョブ型雇用に移行しようとするが、『配置転換』をめぐる問題からメンバーシップ型雇用の維持に転換する。
p.45「経営権の確立を掲げて一九四八年に結成された日経連(日本経営者団体連盟)は、一九五〇年の『新労務管理に関する見解』において、「徒に仕事内容と無関係な身分制の固定化と給与の悪平等」を排し、「仕事の量及び質を正確に反映した」職階給制度の導入を唱導しました。
職階制の効果として「同一労働同一賃金の徹底」というのも挙げられています。」
p.46「一方政府は一九四〇年代末から職務給の導入に向けた指導を行っていましたが、とりわけ一九六〇年代には政府全体の方針となりました。
前章で見たように、国民所得倍増計画をはじめとする累次の政府の政策文書は、口をそろえて職務給への移行を唱導しています。
一九六七年に政府が国際労働機関(ILO)の「同一価値の労働についての男女労働者に対する同一報酬に関する条約」(第一〇〇号)を批准したのも、こういう時代精神を抜きにしては理解しにくいでしょう。」
p.47~48「ところが一九六〇年代後半には、事態はまったく逆の方向に進んでいきます。
一言でいえば、仕事に着目する職務給からヒトに着目する職能給への思想転換です。
これをリードしたのは、経営の現場サイドでした。その背景にあったのは、急速な技術革新に対応するための大規模な配置転換です。
労働側は失業を回避するために配置転換を受け入れるとともに、それに伴って労働条件が維持されることを要求し、経営側はこれを受け入れていきました。
日経連が理念としての職務給化を主張していたまさにその時に、企業人事の現場は職務給では配置転換が円滑に実施できないということを認識し始めていたのです。
そして、この現場の声が日経連のスタンスを変えていくことになります。
この転換を明確に宣言したのが、一九六九年の報告書『能力主義管理――その理論と実践』です。
ここでは、「われわれの先達の確立した年功制を高く評価する」と明言し、年功・学歴に基づく画一的人事管理という年功制の欠点は改めるが、企業集団に対する忠誠心、帰属心を培養するという長所は生かさなければならないとし、全従業員を職務遂行能力によって序列化した資格制度を設けて、これにより昇進管理や賃金管理を行っていくべきだと述べています。
「能力」を体力、適性、知識、経験、性格、意欲からなるものとして、きわめて属人的に捉えている点において、明確にそれまでの職務中心主義を捨てたと見てよいでしょう。
これ以後の日本の典型的な賃金制度は、個々の労働者の職務遂行能力を評価した資格(職能資格)に基づいて賃金を決定する職能給となります。
職務遂行能力はあくまでも潜在能力の評価であって、実際に従事している職務とは切り離されているので、企業が労働者をどんな職務につける場合でも障害にはなりません。
逆にいえば、賃金制度が職能給という形に落ち着いたことで、職務の限定なき雇用契約という在り方が確立したともいえます。
職能給の根拠となる職務遂行能力は、具体的な職務から切り離された一般的な潜在能力ですから、その評価も具体的な職務に関する客観的な技能水準よりは主観的な要素が中心となりがちです。
これが賃金差別問題の原因ともなります。
一方で、一般的な潜在能力は通常年齢や勤続とともに高まると考えられますから、実際の賃金カーブは年功的な上昇を示すことは不思議ではありません。
とりわけ制度設計上、各職能資格ごとに標準滞留年数や最長滞留年数を設定し、労働者によって幅を持たせながら一定年数経過したら必ず昇級、昇格させていくという年功的な運用が広く見られました。
この意味では、職能給も年功賃金の一種ということになります。」
と1970年前後までにはいわゆる「日本的」な雇用慣行がすっかり決まっていたらしい。
この後、裁判での判例や立法によってこのメンバーシップ型雇用制度の強化が行われる。
それについては、また後日記事にしようと思う。
※職務給というのは仕事の内容で給料が決まる形、職能給というのは個人の職務遂行能力で給料が決まる形、ということのようだ。
職務給が「ジョブ型」の雇用に該当する